日本医療政策機構-翔くリーダーたち

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翔くリーダーたち

メンバー・卒業生紹介

小野崎 耕平

植岡 健一

近藤 正晃ジェームス

原 聖吾

日本医療政策機構では、各界で活躍するブレーンを輩出する「リボルビング・ドア(回転扉)」としての姿を目指し、卓越したプロフェッショナル人材を集めてまいりました。医師、行政、医療ビジネス、コンサルティングファーム、メディア、投資銀行など、スタッフのバックグラウンドは多種多様です。このような多様な人材が、よりよい政策立案を目指し、幅広いステークホルダーと協働しながらの政策立案プロセスの中で日々経験を積み、成長しています。そして、機構で得た知見を活かし、更なる活躍の場を求め、国政の場や政策立案の中枢、またアカデミアなど様々な領域に翔いています。

多様な領域から集まったプロフェッショナル人材がより良い医療を目指して磋琢磨しあい、より良い社会の実現に向けて更に飛躍していく。これが、日本医療政策機構の人材輩出サイクルです。

メンバー

小野崎 耕平

小野崎 耕平

グローバル企業から再び政策NPOへ

 
卒業生

埴岡 健一

埴岡 健一

経済ジャーナリストから、患者アドボカシー活動へ転身

近藤 正晃ジェームス

近藤 正晃ジェームス

日本医療政策機構を設立後、政策立案の中枢へ

 

原 聖吾

原 聖吾

医師から医療政策機構に参画、そしてビジネススクールへ

 
 

小野崎 耕平

【プロフィール】

医療用品企業のジョンソン・エンド・ジョンソンでマーケティング、事業企画などのほか、医療安全プロジェクトなどに従事。在米中に公衆衛生・医療政策に関するプロジェクトを企画実行するなかで、日本の医療政策や社会保障改革の必要性を痛感。帰国後、自民党三重県参院選挙区支部長として政治活動に入る。2007年より日本医療政策機構に参画、医療政策担当ディレクター、事務局長代行として、多数の医療政策関連プロジェクトを企画実行。その後、グローバル医薬品企業などを経て、2014年より日本医療政策機構に復帰。

-医療、介護などの社会保障は、幼少の頃から身近なものだった

10代の頃、両親とも体調を崩しました。特に母親はパートのかけもちで体調を崩し、結局車椅子の生活に。医療・介護は非常に身近な問題でした。病院を選ぼうにも情報が無い。藁にもすがる思いで民間療法に多額のお金をかけてしまう。ますます家計が苦しくなる。少しでも家計を助けるため、高校時代は寿司屋で働きながら学校に通っていました。所得や健康とはきっても切れない関係があると痛感しました。後に医療関連企業に就職したのも、公衆衛生大学院に進もうと思ったのも、そのような原体験が大きく影響していたと思います。

-異国の地で実感した日本の素晴らしさ、ありがたさ

医療政策の本を買いあつめ休日に独学で勉強していたものの、体系的にきちんと勉強しようと思いが強まっていました。一方で、国内では医療政策を体系的に学べる場が少なく、結局、米国にその場を求めることにしました。仕事をつづけながら受験勉強。英語もできませんでしたので準備はなかなか大変でした。まして片道切符の私費留学。まずはとにかく奨学金を得ようと必死でした。何とか大学院合格までこぎつけ、最終的には自家用車や家財道具を全て売却して、妻と長男にカバン3つだけで渡米したのは34歳の時でした。

留学では予想以上のものを得ました。何より異国の地で日本のありがたさを実感しました。たとえば、国民皆保険制度とアクセスの良さ、高額療養費制度、介護保険、コストの低さ。生活インフラも素晴らしい。いかに日本の水道水が安全でおいしいか、学校給食がいかに国民の栄養と健康に貢献しているか。電車が時間通りやってくる、空気を胸いっぱい吸い込める、こういう当たり前のことを達成することが、多くの国にとってはいかに難しいことなのか、そんなことを実感しました。長男が通う幼稚園のランチにピザとコーラが出てきたとき思わず絶句したのを覚えています。食生活などのライフスタイルをはじめ公衆衛生という点でも日本には好条件が揃っています。ところが、マスコミも評論家も競うようにして「日本がいかにダメか」という話ばかり一生懸命している。それは違うだろう、と思いました。

-日本の政策決定プロセスに必要な人材の多様性

一方で、もうひとつ米国で感じたこと、それは政策人材の多様性と、それによってもたらされるダイナミックな政策決定プロセスでした。米国には政策シンクタンクが数多くあり、政権や政党に、政策のみならず人材を供給する。大学の教授も政権交代があると政治任用で政府に入る。政府の要職に、シンクタンク、大学、メディア、企業などの民間人が数多く任命される。そして、ミッションを達成したら、また戻っていく。いわゆる回転ドアとして機能することで、政策と人材の多様性を高めている姿を目の当たりにしました。公共政策を、役所だけで抱え込むのではなく、予定調和の審議会で議論の体裁を整えるだけでもなく、議会やシンクタンクが利害集団も巻き込んで是々非々でやりあう。そういう面倒なプロセスを経ないと多様なステークホルダーは納得しない。

もちろん米国のこのやり方には批判もありますし、日本とは政治システムも官僚制度も異なりますので一概に比較できません。ただ一方、日本の最大の課題のひとつに、政策人材の多様性の低さや国民の「お上志向」、閉じた政策決定プロセスがあるのではないかとも直感的に感じていました。

-日本を市民社会にしなければならないと、痛切に感じた

帰国を間近にした私は、悩んだ挙句に決まっていた就職の内定を断って政治の道に進むことにしました。当時はまだ珍しかった自民党の公募に応募し合格、2006年に帰国してすぐに政治活動に入り第一次安倍政権下の2007年の参院選に故郷の三重県から出馬しました。結果は惨敗でしたが、得られたものは本当に大きかった。

まずは世論の怖さを体感できたこと。当時は年金問題と閣僚不祥事の連続で、街頭ではビラを配ってもその場で破られてしまう。一度つくられた「世論」の前にはなすすべがない。メディアの力やテレビ報道の怖さを思い知りました。

国民もマスコミも、なにかあれば「政府の対応が求められる」「政治家の能力が低い」などと他人事のように批判や評論するだけではダメなのではないか。そう痛切に感じるようになりました。政治活動をしていると、「あれをしてください」「これをしてください」と要望や陳情ばかり。国民が主体的に何かをするというよりも、政治や政府が何かをしてくれるのを待っている。これではいけない。私は、日本を本当の市民社会にしなければならないと痛切に感じましたし、自分が自ら行動しなくてはならないと思うようになりました。

-日本医療政策機構を経て再び政治の道へ

参院選の敗戦処理がひと段落しつつあったころ、知ったのが日本医療政策機構(HGPI)の存在でした。HGPIのミッションは、まさに私のミッションと重なるものだったのです。HGPIでは、「医療政策国民フォーラム」という民間有識者会議の立ち上げなど数多くのプロジェクトを担当しました。HGPIの活動も活発で、当時の仲間が海外政府の要職に抜擢されたり、当時の国家戦略室に引き抜かれたりするなど、卒業生がつぎつぎと活躍。人材輩出も大きなミッションとしていたHGPIのひとつの成果だったのではないかと思います。

ちょうど同じころ私も自民党に呼び戻され再び三重県で2010年参院選に。信念を貫き再挑戦するという姿を、皆さんに見ていただくことで、特に若い世代に見ていただくことで、次世代の日本のために貢献したい。そう思っていましたが、結果は次点。ただ前向きな挑戦でしたから後悔は全くありませんでした。

シンクタンクでの経験はもちろん、自身の政治活動を通じ、役所と政治の関係、政党や政治家の能力と限界、そして地方の暮らしの実態を見るなかで、かつて「東京で日経新聞を読んでいるサラリーマン」だった当時の自分の視野がいかに狭かったか痛感しました。そして、政府・与党がもつ圧倒的な情報量とリソースと権力を目の当たりにすると同時に、それらに欠けているものも次第に見えてきました。

-グローバル企業のマネジメントを経て再び「政策NPO」へ

その後、英国本社の医薬品企業に入り、経営幹部として広報や法務などの管理部門を取りまとめる仕事をしました。政府でいえば官房長官のような仕事。あるときはスポークスパーソンとして、ある時は危機管理対応に走り、そして連日の会議と決裁。ともに働く仲間の国籍はイギリス、アメリカ、スイス、スェーデン、ドイツ、トルコ、スペイン・・・と多様。数年ぶりにビジネスの世界に戻り、「あうん」など全く通用しない多様性あふれる組織で、忙しくも楽しい日々でした。

いくつかの大型プロジェクトが片付き少し余裕もできてほっとしたころ、友人に誘われて日本医療政策機構(HGPI)のイベントを卒業生としてボランティアで手伝うようになりました。そこで、あらためて民間・非営利・超党派の独立シンクタンクの存在価値を再認識しました。

― 政治家でもなく、官僚でもなく、ジャーナリストでもなく、大企業の社員でもない― 市民社会(Civil Society)を担う「政策NPO」にいてこそできることがあるのではないか。企業や省庁にはいくらでも人材が集まる一方で、NPOにはマネジメント人材はなかなか集まらない。そういえばこの日本医療政策機構がまだヨチヨチ歩きだったころ、悩みと言えばマネジメントと人材確保のことばかりだった、ということも思い出しました。であれば、自分が一肌脱いで行動しよう。そう思いHGPIに復帰することにしました。

いま、HGPIには医師、中央省庁の官僚、研究者、ビジネスパーソンなど多様なバックグラウンドと高い志を持つ人材が働いています。組織の肩書きではなく個人の信頼で勝負しないと仕事にならないのが政策NPOの世界。たからこそ人間として成長できますし、そしていまたくさんの卒業生が各界で活躍しています。

「今を生きる」多くの同志が後に続いてくれることを願っています。

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植岡 健一

【プロフィール】

日経ビジネス記者、ニューヨーク支局長、副編集長などを経て、1999年骨髄移植推進財団事務局長。2003年より日経メディカル記者となり、医療の質評価、診療格差、がん対策などに関する記事を執筆するとともに、がん患者支援サイト「がんナビ」編集長を務める。2004年東京大学医療政策人材養成講座(HSP)特任准教授、日本医療政策機構理事。2008年より日本医療政策機構市民医療協議会共同議長、がん政策情報センター長。2010年より東京大学公共政策大学院医療政策教育・研究ユニット特任教授。このほか、厚労省がん対策推進協議会委員、国立がんセンターがん対策情報センター運営評議会委員、協会けんぽ(全国健康保険協会)運営委員などを歴任。2014年6月、日本医療政策機構を退任。大阪大学文学部卒業。

-家族の闘病経験で痛感したのは、病気や医療に関する己の無知

1996年、もし、家族が白血病になっていなければ、今のような活動をしている私は存在していなかったでしょう。経済ジャーナリストとして家族3人でニューヨークに駐在している最中に、がんは突然、舞い込んできました。まるで、テレビドラマを見ているようで、事実として受け入れるのには、そうとう時間がかかりました。ドナーが見つかって骨髄移植をしたのですが、残念ながら再発して亡くなりました。

帰国後、一連の出来事を冷静に考えられるようになったとき痛感したのは、病気や医療に関しての己の無知でした。そして、家族が生前「命が助かったら社会に役立つ仕事をしたい」と言っていた言葉に背中を押されて、ジャーナリストの仕事をしながらつくったのが、白血病患者さんのためのメーリングリスト。患者さんだけでなく、その家族や、医師、看護師といった医療従事者、支援者もメンバーに加わり、ネット上で病気に関する相談、アドバイスや意見交換が展開されました。アメリカにくらべて日本ではあまりに白血病に関する医療情報が少ないと感じ、英文の情報を仲間と訳してサイトにアップするなどの活動もしました。

-政策立案者に働きかけなければ、何も変えられないのです

アメリカと大きく違うと感じたのは骨髄バンクのあり方。日本の骨髄バンクは組織としての改善点が多かったです。黙って見ていられなくなった私は、骨髄バンク事務局長立候補運動を始めました(笑)。自分のウェブサイトで「私は事務局長に立候補します。事務局長にならせていただければ組織の大改革をお約束します」と宣言したのです。

最初は呆れられもしましたが、ボランティアの方々の応援、そして組織の内部の人の支援もあって、事務局長の就任が決まりました。事務局長をした4年間に、みなさんの協力を得て、新しいドナー募集のシステムづくり、コーディネート期間の短縮、財政再建などの改革を行いました。

この過程において、私には2つの気づきがありました。ひとつは、医療はマルチステークホルダーで決められるべきだということ。骨髄移植の領域では、ドナー、患者、医師、コメディカル、コーディネーター、あるいは行政の人などがフラットに意見を交換することが普通になっていました。だからこそ、各当事者の間にいっしょに医療を支える参加意識や、一定の納得感がありました。

もうひとつは、政治や行政の役割の重さ、あるいは政策の大事さ。そこが動けば、患者や医療現場の環境がガラリと変わり、メリットをもたらすことができます。もっとも、医療関係のシステムは簡単には変えられません。行政の人や政治家に提案を訴えたり、議論の場をつくってもらったりするなど、政治や行政の仕組みを知って政策立案者に働きかけなければ、何も変えられないと実感したのです。

-当機構のミッションと、まっすぐに向き合いたいと思った

2004年、いろいろな医療関連の会合でお会いしていた近藤正晃ジェームスさんにお誘いを受け、できたばかりの日本医療政策機構に参加させていただくことになりました。

そのころは、骨髄バンクもいい方向に進みはじめ自分の役割は終えたと考えて事務局長の職を辞し、再びジャーナリストの仕事をしていましたので、非常勤というかたちで籍を置かせてもらいました。

しかし、2008年、出版社を辞めて常勤となりました。「私は医療政策立案に市民の声を反映させるために活動をしている。それで医療に貢献したいと願っているし、それを生業としている」。自分の立場をクリアにすれば、よりミッションとまっすぐに向き合えると思ったからです。

-“六位一体”のがん対策が地域の医療の政策決定プロセスを変える

機構に勤務した6年間でもっとも力を注いだのが、がん対策の向上でした。医療を良くするには政策を良くする必要があり、政策を良くするには患者・住民が政策づくりに参加することがカギとなる。その考えに基づき、患者関係者の政策立案力アップを支援してきました。計9回開催した「がん政策サミット」はひとつのモデルを示していたと思います。参加者から生まれたのが“六位一体”というあり方です。患者、政治家、行政担当者、医療提供者、企業、メディアという異なる立場が一堂に会し、共に考え共に行動するという協働スタイルです。

がん対策推進条例制定活動や、地域のがん計画や対策の向上は、こうしたあり方と共に各地に浸透していきました。ダイナミックな動きの場に立ち会えたことに感謝しています。こうした取組が継続されることで、全国のがん対策が成果に結びつくことを願っています。“六位一体”スタイルは、どんな分野においても地域の政策のあり方に教訓を示していると思います。HGPI在職時代に学ばせていただいたことを、今後も活かしていきたいと思います。今後も、東京大学公共政策大学院医療政策教育・研究ユニットが行っている社会人育成講座である「医療政策実践コミュニティー」において、“六位一体”のあり方をさらに探究していきます。

 
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近藤 正晃ジェームス

【プロフィール】

マッキンゼー・グローバル・インスティチュート(本部:ワシントンDC)の中心メンバーのひとりとして、日本、台湾、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシアにおける国家経済政策を立案。数多くの経済・政策関連プロジェクトを通じ、日本の医療改革の重要性を痛感し、2003年に東京大学医療政策人材養成講座(HSP)を設立、翌04年特定非営利活動法人日本医療政策機構を設立し、副代表理事および事務局長を務める。新政権発足をうけ、2009年12月より内閣官房国家戦略室長室付内閣参事官。慶應義塾大学経済学部卒。ハーバード経営大学院修士課程修了(MBA)。

-目前の課題へ機動的に向かうにはシンクタンクが必要だった

私はかつて10年に渡ってマッキンゼー・アンド・カンパニーというグローバルなコンサルティング会社に籍を置き、日本・台湾・米国・英国・フランス・ドイツ・ロシアにおける国家経済政策立案に携わっていました。また、米国ワシントンDCにある経済シンクタンク、マッキンゼー・グローバル・インスティチュートの中心メンバーの一人として、各国の政策内容や立案プロセスについて調査・研究プロジェクトにも参画していました。

そのようなグローバルな視点から各国の政策立案プロセスに関わる経験を通して得たのは、日本の今後を支える最重要分野の一つが医療であるという確信でした。世界のどこよりも早く高齢化が進む日本社会が直面するさまざまな医療課題は、極論すれば人類が初めて直面する問題であるとも言えます。日本がそれらにうまく対処し課題を解決に導ければ、日本のあとを追うようにして同様の課題が顕在化する多くの国にとって、日本のノウハウはきわめて重要な参考になると直感しました。

しかし調べてみると、驚くべきことに、日本には客観的に医療問題を議論する場がありませんでした。医療政策立案のプロセスが旧態依然のままでは、課題解決などままなりません。そこで、医療政策決定の場に政策の選択肢を提示する活動に身を投じるため、東京大学に籍を移しました。2003年のことです。

最初に取り組んだのは、医療政策をつくり、政策を提言し、「医療を動かす」ことができるリーダー層の養成。同じ想いの医学部の先生方と私が在籍した先端科学技術研究センターが中心となり、東京大学医療政策人材養成講座(HSP)を立ち上げました。HSPでは、ややもすると対立しがちな医療者と患者リーダー、政策立案者とジャーナリストという4つのステークホルダーを巻き込み、それぞれの人が立場を超えて協力し、新たな医療の姿を模索するコミュニティーを形成した点で大きな実績を残せたと自負しています。ただ、一方で、たった今、目前にある政策課題に機動的に向かうには、他の形態の組織―シンクタンク―が必要であるとも気づきました。HSPの立ち上げでもご一緒だった黒川清先生に相談すると、幸いにも大いに共感をいただき、2004年、日本医療政策機構の誕生にこぎつけました。

-市民も患者も参加しない医療政策の議論は、絶対におかしい

設立に際し「ミッション」に、「市民主体の医療政策を実現すべく、中立的なシンクタンクとして、幅広いステークホルダーを結集し、社会に政策の選択肢を提供すること」と掲げました。

政策立案に市民が参加し、立法府が政策オプションの選択について議論する。民主主義社会では至極当たり前のプロセスが、日本では実現していない。政府で“関係者”の立場で常に参加しているのは役人と職能団体のみ。市民や患者の参加者がいない医療政策の議論には大いに疑問を感じました。当事者として医療の実態に詳しい患者、保険料や税金を負担する国民を無視した医療政策議論が空疎になるのは自明の理です。

しかも、日本の医療は給付とバランスで大きな岐路にたっている。負担を低くするために給付を削るのか。給付を引き上げるために負担を増やすのか。負担増も給付減も国民に痛みが伴います。市民参加なしに進められる改革ではありません。

-日本の医療は、世界の医療に貢献する可能性を持っている

日本医療政策機構の運営においては、常に“世界”を意識してきました。医療は、環境と同様、国際的視野を持って考えるべきテーマですから。そして、私たちは日々、グローバル・ヘルス(地球規模の健康課題)に関し、世界銀行やアメリカの主要シンクタンクと積極的に連携する中で、国際社会の期待に添える活動をする組織はいかにあるべきかを考えています。日本が世界の医療に貢献するためにも、私は、当機構を国内はもちろん、世界にあっても存在感を示せる組織にしていきたいと思い、グローバルな潮流を意識した事業を展開した結果、2010年には米・ペンシルバニア大学による世界のシンクタンクランキングの医療部門でトップ10入りするという実績を残すことが出来ました。

-日本医療政策機構を経て内閣官房国家戦略室長室へ

日本医療政策機構が発足してから5年経ち、2009年に民主党による新政権が発足したことを受け、内閣官房国家戦略室長室にて政策立案に関わることになりました。社会変革を推進するためには、理論中心の大学、政策提言のシンクタンク、行政の政府、社会実践のための企業やNPOといった多様な組織の連携が重要です。キャリアという観点からも、どれかひとつの経験のみならず、理論-提言-行政-社会実践を総合的に理解することが大切になる。そんな発想から、私自身、企業、大学、NPO、シンクタンクを経て、縁あって行政の中で政策に関わることとなりました。

米国では、政権の重要ポストに最もふさわしいと考えられる人材を各界から起用するシステムが定着しています。民間から、政権へ、そしてまた民間へ、という人材の流れは「リボルビング・ドア(回転扉)」と呼ばれ、重要政策にベストと考えられるブレーンを集める上で欠かせない機能となっています。その機能を支える上で重要な役割を果たしているのが民間のシンクタンクですが、日本にもこのような人材輩出メカニズムが今後一層求められていくのではないでしょうか。

真の民主主義に基づいた政策立案プロセスを実現するには、民間と政権の垣根を低くし、エキスパートによる効果的な政策が生まれる仕組みの構築が不可欠です。日本医療政策機構という民間のシンクタンクで培った民間の多様なステークホルダーの知見を活かす政策立案プロセス構築の経験は、現在私が政権内で政策立案に携わる上で非常に貴重な財産となっており、今後、日本医療政策機構のような民間のシンクタンクから、実際の政策立案プロセスに関わる人材が輩出されることを願っています。

 
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原 聖吾

【プロフィール】

国立国際医療研究センター(国立国際医療センター:当時)における臨床研修を経て2007年に日本医療政策機構へ参画。生活習慣病、グローバルヘルス(国際保健)プロジェクトの立ち上げに携わる。留学後、マッキンゼーにてヘルスケア業界を中心に組織変革、成長戦略策定等のプロジェクトに従事。2014年から日本医療政策機構に出向。東京大学医学部、スタンフォード大学経営大学院卒業。

-真の意味で医療課題に貢献するには

私が日本医療政策機構に関わったきっかけは、大学で医学部生を対象にして行われた医療政策クラークシップでした。当時、医学部生として医師を志していた私は、クラークシップを通じて、医療が医師会や厚生労働省だけでなく、患者会やメディア、ビジネス界等多くのステークホルダーを深く巻き込んで成立している事実を目の当たりにし大きな衝撃を受けました。同時に、医学教育を受けた自分が、真の意味で医療課題に貢献するには何ができるのか改めて考えるようになりました。

医学部を卒業して病院での研修を始めた私は、医療現場の現実に直面し、医師としてできることの限界を感じるようになりました。病院にいる医師等の医療従事者や患者の皆さんは素晴らしい方ばかりで、かつ全力で目の前の問題に立ち向かっていました。一方で、多くの方が医療のあり方に疑問を持っていました。医師不足、医療不信や訴訟等、課題が表面化する中で、どのような社会の仕組みにすべきか十分な議論が行われず、解決策が提示されていないことを痛感しました。市民主体で政策提言をするという使命に共感して日本医療政策機構へ参画することを決めたのは、その頃でした。

-様々なステークホルダーを巻き込んだ政策決定プロセスの重要性

日本医療政策機構で特に注力して取り組んだのは、生活習慣病対策及びグローバルヘルス(国際保健)のプロジェクトです。生活習慣病は、今や日本はもとより世界最大の死因でありながら、その患者は増え続ける一方です。病院にいた際に、多くの方が生活習慣病の存在を知りながらも、生活習慣を変える糸口をつかめずに苦しんでいた姿を見ていた私は、その解決に向けて何か貢献できればと考えていました。我々は民間の非営利団体という立場を活かし、政府、医療従事者、患者、学術界等を巻き込んだプラットフォームをつくることを試みました。各ステークホルダーが互いに協業し、革新的な解決策が生まれる土壌作りへとつながるきっかけとなりました。

グローバルヘルス(国際保健)は、全く新しいプロジェクトの立ち上げとなりました。2008年はG8サミット(主要国首脳会議)を日本が主催する年であり、 生活習慣病の他、感染症や母子保健等の世界的な医療課題に日本がどのように取り組むか、国内外からの注目が集まっていました。日本における医療政策シンクタンクとして、世界銀行やゲイツ財団、日本の各省庁やNGOと連携しつつ、日本の貢献がどうあるべきか模索し、会議の開催や政策提言を実現しました。日本医療政策機構がこれまでに築いてきた、国内外で同分野をリードしている諸団体とのネットワークを活用することで実現できた取り組みと思います。

-日本医療政策機構からスタンフォード大学経営大学院へ

これらのプロジェクトを通じて、私は市民主体に行動することの重要性を学びました。日本医療政策機構のような比較的小さな民間の非営利組織でも、主体的に社会に働きかけて周りの方々を巻き込んでいくことで、医療のような大きな社会的課題に対してインパクトを与えることができる。その重要性とやりがいを実感しました。社会起業という言葉で広がりつつある取り組みと重なるこの領域に、私は深く惹き込まれて行きました。このような領域において自分ならどのような形で取り組むことができるのか、さらに考えを深めるべくビジネススクールへ留学することを決めました。

-医療の世界に新たな価値を

初めての本格的な海外留学で、英語もままならず、ビジネス経験もない私はビジネススクールで劣等生でした。周りのクラスメートに追いつくのに必死な中、痛烈に感じたのは、「ゼロから新しい価値を生み出すこと」の重要性と楽しさです。ゲームを活用して小児白血病の服薬コンプライアンスを上げるベンチャー企業や、当時上場前のフェイスブックやツイッターを活用して生活習慣を改善するアプリなど、テクノロジーを駆使して医療へ変革をもたらすことを信じて行動する数多くの起業家に出会いました。彼らは一様に、新たな価値を生み出すことにワクワクして、輝いていました。

「世界を変えるのは君たちだ。」

この、ともすれば青臭い教義を学校は何度も繰り返し学生に伝えてきましたが、不思議なもので、周りのクラスメートたちも私も、いつの間にかこれを違和感なく感じるようになりました。昨日まで隣にいたクラスメートが作った事業が急成長して多くの人に使われるようになっていることも珍しくなく、そんなシリコンバレーの環境が後押しした部分もあったでしょう。私は、日本の医療に新たな価値を生み出すことを自分の使命と思うようになりました。

新たな価値を生む可能性のある領域として私が最も関心があるのが、いわゆる「医療」の周辺部分です。「医療」の本体部分には幾多の基礎・臨床研究の積み重ねとエビデンスがある一方で、その周辺にある予防や健康増進、介護やターミナルケアといった領域では、現在でもエビデンスが必ずしも十分といえません。

例えば、「食生活や運動は重要です」ということはしつこいほどに語られますが、一人ひとりの異なる遺伝的特性と生活環境を踏まえて、どのような食生活や運動をすると本当に健康になるのか、エビデンスに裏付けられた情報は限られています。急性疾患から慢性疾患へのシフトを背景に、食生活や運動の重要性が政策という点でも個人の暮らしという点でも高まる一方で、私たち個人はこの限られた情報をもとに判断を下さなければなりません。私は、一人ひとりが自分の健康について下す判断に、後で後悔しない社会を作りたいと考えています。

その後の英国の財団/シンクタンクや戦略コンサルティング会社での勤務、そして日本医療政策機構への出向を通じて、医療・政策・ビジネスの境界を行き来しながら、この課題の解に次第に糸口が見えつつあります。規模は小さくとも、医療に新たな価値を生む社会モデルを自ら考えて提示し、そして行動していきたいと考えています。